※本記事は、『シン・ウルトラマン』のネタバレを含みます。
『シン・ウルトラマン』を観た。あっという間の、約2時間だった。この映画を観ていた間の私の心の動き、思考、情緒の詳細は、全て文章にしようとすると、それこそウルトラQのタイトルバックのマーベル模様のように、グルグル乱れ回りまくったものになりそうなので、短めに済ませることにする。
『シン・ウルトラマン』は、不思議な映画だった。この映画は、既に知っている、見たことがある要素ばかりで構成されていた。ネロンガが電気を喰うことも、ガボラのヒレがガバッと開いて激ヤバ光線が放たれることも、ザラブ星人がにせウルトラマンになることも、メフィラス星人が途中で勝負を放棄することも、ゼットンの火球が本当に1兆度あったら太陽系が蒸発することも、ゾーフィ(ゾフィ)がウルトラマンを迎えに来ることも、昔から知っていたことだ。
なのに、何故。何故、こんなにも、「全く新しいウルトラマンを観た」という満足感が、私の胸を満たしているのか。
思うに、ウルトラマンという作品、ヒーローは、元々、とてつもなくイケていたのだ。姿も能力も、お話も、全てがイケていた。
しかし、元々ウルトラマンが好きな私のような人間はともかく、世間一般では、どうやらそうではないらしかった。
着ぐるみの中に入った人間が、ミニチュアでできたオモチャの街の中でじゃれあっている。飛行機の模型を糸で吊って、ブラブラと揺らして喜んでいる。小学校に上がる頃には当然卒業する。大人になっても観ているのは、成長していないオタク達。
「まぁ、実際、そうなのかもしれない」
長いことウルトラマンのオタクをやっている人なら分かってくれると思うが、自分と世間とのズレを、半ば無理やり納得して、自分が傷つかないように努めた経験は無いだろうか。
でも、この映画を作った人たちは、そうではなかったのだ。
現代の最新技術で、「ウルトラマンはとてつもなくイケてる、格好良い作品、ヒーローなんだぜ」ということを、世間に知らせてくれたのだ。
パンレットのインタビューによると、樋口真嗣監督は、この映画を「ファンだけに向けた閉じた作品にはしたくない」と考えていたようだ。あれだけ愛を込めておいて何を……とツッコみたくなるが、私には、何となく、この言葉の意味が分かる気がする。
ウルトラマンは、元々とてつもなくイケてる、格好良い作品、ヒーローなので、あえて何も変えず、そのままお出ししたのだ。
ウルトラマンが持っている魅力そのものが、そもそも“閉じたもの”じゃないのだ。
恥ずかしがらずに、何も脚色せずに、もっと自信を持って世間にお出しして良いものなのだ。
そのことをダイレクトに表現するにあたって、現代のCG技術は最適な手段だった。
「全て知っているのに新しい」。この不思議な感動、満足感は、このような制作陣の思いのおかげなのだ。私は、公開から1ヶ月、色々と考えた末に、このように感じている。
皆、もっと喜ぼうぜ。調子に乗ろうぜ。オタクがそうでない人たちにマウントを取るのはダサい行為だけど、たまには良いじゃないか。俺たちは長いこと、誰に言われた訳でもないのに、勝手に自分たちから遠慮していたんだから。世間にドヤ顔で言ってやろうぜ。
え、知らなかったの?ウルトラマンは、最高にイケてて、最高に格好良い、最高に最高なヒーローなんだぜ。